昭和43年3月5日 夜の御理解
御理解 この方のお道は喜びで開けた道じゃ。喜びでは苦労はさせん。
信心をさせてもらって喜ばしてもらうという事、木の切り株に腰を降ろしても、立つ時には礼を言う様な心持ちになれよと仰っておる。全ての事にお礼を言う事を一生懸命努める。木の切り株に腰を降ろしても、立つ時には礼を言う様な心持ちになっとく。もう私共の周囲にゃあお礼を申し上げにゃならん事が沢山ある。不思議にあの「有り難うございます。有り難うございます」と言ようりますと、何とはなしに、やはり有り難うなって来る。そういう意味で生まれて来る喜びね、同時に心の中から涌いてくる喜び、どこから湧いてくるかわからないこの喜びは、いったいどこから来るのだろうかと思う様に、心のそこから湧いて来る喜び、これは教祖の神様、この方の道は一生が修行とこう仰る、一生が修行じゃと。勿論、有難くならせて頂く為の修行、ね、水をかぶったり、そういう中からのものではない、ね。いわゆる、この方の行は表行より心行、または家業の行とこう仰る。そういう行の中に信心の教えを元にして、おかげを頂いておる。それが修行である。また心を本気で研き、または改まって行くという事に修行をかける。そういう所から心の喜びが頂けれる。ですからそれはもう、そういう様な心というものを、ちょっと、いわゆる方向を見失いますと、その喜びはすぐ消えてしまう。ですから、いつも絶えず自分の心の中に神様に心を向けさせてもろうて、おかげを頂いて行かなければならない。昨日頂いた喜びが今日まで続くという事にならない。それはちょうど、あの、出し昆布の様なものじゃ。いっぺん出したら後はもう出さない。また次の昆布が必要である。その次の喜びをですね、やはり求めて行くのである。それはいつも自分で求めて行くという事が修行であり、それに与えられるのが喜びであるね。いつもその求めて行くというそれが修行。金光様を信心しとりゃあ、まあ貧乏なら貧乏の修行を一生せんならんと言った様な事じゃない。もう本当に人のまねのできん様な表行なんかを続けなければならんというのじゃない。自分の心の中にね、いつも心を神様の方へ向けてね、御教えにそうた生活をさしてもらう事が、そのまま修行になる。そういう限り無い修行から新しい喜びが開けて来るのである。喜びの新鮮さというかね、そういうものがないとおかげにならん。そういう喜びにお徳が受けられる。信心すれば誰でもお徳が受けられると仰るのはそれ。
今日、日田の山奥の山奥ですがね、本田さんという方がお参りをして見える。これが【 】さんの奥さんの遠い親戚にあたると。まあ色々、山を持ってられたのが、ある事でおじさんの、自分の所の確かに山だけれども、ある事でおじさんの名前になっておって、おじさんのまあ物になってしまっておる。それをまあそういう。ま、裕福な家庭でしたから、まあ放任してあったけれども、自分の方もだんだん困って来た。そこでそれを返やしてくれ言われるけれども、こりゃあもうおれん所だと返されてない。まあそういう様な事を【 】事でしたが、それを私今日聞かせて頂いたんですよ。もうおかげを受けたというそのお礼はあったけれども、その詳しくは聞かなかったんです。裁判の時ですね、向こうのおじさんという方が、もう初めから最後までがガタガタ震えどうしじゃった。もうそういう様な事がですね、それこそ大岡裁きじゃないけれども、これは、これの言いよるとがほんな事、というふうにそれが決め手じゃったという事です。もうそれは、もう口で言う事、もう本当に何もかにもがさばけたおじさんらしいですけれどもですね、もうその時にはそうじゃったと、もう本当に神様の働きというものを、ま、だんだんわかって来たんですね。ほいで今度娘さんがここらの大学に受験を致しました。おかげで通った。それでその受験料を納めに行かなきゃならん。ああ受験料じゃない、入学金かね。ちょうどあの大雪の日であった。もう日田の方からは全然、その何も通らなかったんですけどもね、何か久留米の方から来た方がですね、もういうならば、雪をおかして上って見えか方があってですね、その方に便乗させてもらって、もう何からかにまで、それこそ昼食までお世話になって、まあいわゆるおかげ頂いた。ま、その間の事がですね、もう本当に、成程神様のおかげ頂いておる印だなと言った様な、その中をおかげ頂いております、ね。ところが今日あちらの保証人が小倉在住の、そのそれがいる。ところがその知り合いがいない。どうしたもんかと言うて佐田さんの所に、今日は見えてここにお礼参拝された。そこへちょうど木村さんから電話がかかって来た。今日矢野さんが、今、姉さんですけれども【 】先生の。毎日小倉から日参しております、ある事で。ならあの「いつ頃来ますからどうぞよろしく」という事でお取り次ぎさして頂いて帰ろうとしょうる所へ【 】さんと矢野さんと見えられた。ほいでその話をされたところが、もうそりゃあ、いいどころじゃない「まあ、じょうちゃん下宿でもされたらまあ時々【 】ぐらいはうちに来てくれ」という様な事になった。もう本当に喜びが喜びをこう生んで行くといった様な感じでですね、順調に。置いたものをその取る様な感じです。これは私、あのまあ、いうなら喜びが喜びを生んで行っておる姿であるとこう思う。いうなら木の切り株に腰を降ろしても、立つ時にお礼を言う心持ちが次々喜びを生んで行く。信心の深さにまだ触れておるわけではない。けれども、そのおかげと言わなきゃおられないおかげが、次々こう体験されて行く。ところが、あの、そういう例えば、あのいうなら「有り難うございます。ほんと信心ちゃ有難いもんじゃ。有難いもんじゃ」と思う心が、ただおかげを呼ぶというか、おかげを受けて行くという、それではね、けれども、あの世までも持って行けれるという徳という事にはなってこない。「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心をすれば誰でも受ける事ができる。みてるという事がない」ね。いわゆる、いよいよ信心である。これは信心をすれば誰しもお徳が受けられるというお徳。もう確かに私共はその両面から行かなければいけない、ね。もう本当に心の中に不浄が起こっても、これでおかげ、おかげと嘘にでもおかげ、おかげと言うていきゃあね、嘘からでた誠で、またそれが喜びに変えられて行く。おかげと思わんでもおかげと言うて行く。三のおかげと思うても十のおかげと表現すりゃあ、次にゃあ十のおかげと仰る様なおかげが頂けれるけれども、それは、ただ喜びが喜びを迎えるというかね、喜びが喜びをはんで行く様なおかげである。これがどこまでも私はおかげであると思うね。ですから心の底から湧いて来るその喜びというものはですね、いわゆる、先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けられる。信心をしなければならん、ね。いわゆる、いよいよ神様が信じれれるね、信心さして、いよいよ自分の心を研いて真心出して行かなければ、信心、ね、信心とは、いよいよ自分の心が豊かになり、有り難うなって、ね、いわゆる神心である。かみごころである。そして最近言われるところのですね、「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」という信心。いわゆる神と人との信心である、ね。自分のおかげを神様が喜んで下さる為に、神様が喜んで頂く信心をする。そこに神の喜びがまた、氏子の喜びとしておかげになって来る。そういう信心の過程というものがです、頂かせて頂く為に、一つお互いが一生が修行じゃと仰る修行に向きを変えなければいけない、ね。そこから私は、そういう信心から、誰でも受けられるというのがお徳である。あの世までも持って行ける、子孫にも残しておけれるお徳というのは、神徳というのは、そういう信心から頂かれるのである、ね。ですから信心の稽古初めにゃ、もう何でも損でもええけん、有難い有難い、もう履いて来たげたにもお礼言いなさい。乗って来たバスにもお礼言いなさい。着とる着物にもお礼を言いなさい。使わして頂く水にもお米にもマッチにも、もう自分の周囲の全てのものにお礼を言う「有り難うございます。神様有り難うございます」と言う。そういう「有り難うございます。ああ、やっぱり神様ちゃ有難いな」というおかげがそこに生まれて来る、ね。そのおかげが有難いから、また有難い有難いを、その続けさして頂くところから、おかげになって来るね。けれども、これがどこまでも、やはりおかげである。ですからそういうおかげとね、今私が申します、信心をすれば誰しも徳が受けられるいう信心、信心をただ、有り難うございます、有り難うございますというておる事が信心じゃない。それはおかげを呼ぶ一つの方便なんだ、ね。これでは、しかし子孫にも残るとかあの世にも持って行けるというものになって来ない。そこには一生が修行じゃと仰る修行の方に方向を、向きを変えて自分の心の底からね、これはちょうど、その出し昆布の様なもの、ね。その喜ぶ喜びが取り替えられて行く。さらな新しい喜びが心の中から湧いて来るというところのもの、そういう喜びがですね、あれも有難い、これも有難いという事になって来ると、これいよいよ、これは御神徳を受ける信心なんです、ね。その両方の所が一つできなきゃあいけません。同時に、最近言われております信心は、親に孝行するも同じ事と仰るね。親に孝行するも同じ事という様な信心に、お互い方向を変えて行かなければならない。ただ自分がおかげさえ頂ければ親が喜ばんでも、神様が喜こんで下さらんでもいいという自己中心の、それではやはり信心の程度が浅いといわなければならん。それでは御利益だけの目当て。自分の心の底から湧いて来る喜びを求めて、本気で修行さしてもらう。そこから成程、親に孝行するも同じ事ぞや、という信心がわかってくる、ね。私共が一緒に喜び合えれる信心ね。それを、それをお道では信心と言われるのです、ね。どうぞ、信心して御神徳を受けてね、成程、ああ、これならばあの世に持って行けれるだろうと、成程、これなら子供に残しておけれるだろうと、自分でも感じられる所までです、信心が進めさして頂きますと楽しみが生まれる。成程、一生が修行であろうという事がわかってまいります。どうぞ。